国際学会のことー2(デビュー戦の思い出)
ここに1枚の写真がある。
この写真に、あえてタイトルをつけるなら、
「あの頃、僕はアホでした!」
となる・・・
1995年6月、博士課程2年の初夏を迎えた頃の私である。
好きなもの、
コーヒー、ビール、ドイツ風居酒屋「ペルケオ」で飲む
シュタインヘーガー、行きつけのお好み焼き屋の明石焼、
タータンチェック(ロイヤルスチュワート)のシャツ、
そしてハマショウ(浜田省吾)
という頃であった。すでに研究室ではナンバーツーの学年であり、偉そうに実験室の片隅に一人悠々とマイデスクを構えていたのである(今も実験室の片隅に自分のデスクを置いている、というか置かざるをえないのはこの頃の呪いであろうか・・・)。奨学金で買ったばかりのマック(たしかLC630だったと思う)が自慢であった・・・
初めての国際学会(SSR)を翌月に控えて、ただただアメリカに行けることが嬉しかったのである。頭の中で、ハマショウの名曲「America」がエンドレスでリフレインし、真夜中の実験室で一人、ブタIVF胚の固定染色をしながら、
♪ロスか〜ら、サンフランシスコへ〜続くフリーウェイを〜♪
と大声で歌い続ける毎日であった。頭の中に流れるシーンで、ロスからサフランシスコへ続くフリーウェイをニューヨークで踊ることを夢見るダンサーの彼女とヒッチハイクするのは、もちろんハマショウグラス(上写真参照)をかけた私である・・・
1995年7月、成田からソウルを経由し(なぜなら大韓航空の格安チケットだったから)、サンフランシスコ国際空港に降り立ったときは、ホンマ感動でチビリそうになった。そこから小さなプロペラ機で、学会場であるUC Davis校の最寄り空港であるサクラメントへ。このサクラメント空港で初海外の洗礼を受けた・・・
サクラメント空港のターンテーブルに、私の荷物だけがでてこなかったのである。空港で預けた荷物がでてこないことがあるということだけでも驚きだったのに、クレームデスクにいた航空会社の係員に「僕の荷物がターンテーブルからでてこないんやけど」という簡単な英語がまったく通じなかったことに打ちひしがれた。同行していた岡山大学の恩師・奥田潔先生(私が奥田先生の鞄持ち的な感じで国際学会に連れてきていただいた、というのが正しい表現である)に係員に説明してもらったのが、なんとも情けなかった・・・
学会は楽しかった。
というか、実はこの学会の内容は今となってはあまり覚えていないのである。覚えているのは、外国の学会は、ポロシャツ・短パンで発表するのが普通!ということに驚いた!とか、ポスター会場にドーナツやフルーツが普通におやつに置いてある!とか、なんかもうそんなどうでもええことばかりである。
私を一番感動させたのは、宿泊していたホテルから毎朝歩いて通ったコーヒーショップで食べた朝食である。ハッシュドポテトなるもの(朝マックのハッシュドポテトとは全く別物である。念のため)を初めて食ってその美味さにハマった。目玉焼が、片面焼きか両面焼きかを選択できるのがオシャレだと思った。ベーコンは分厚めのものをカリカリに焼くと、ホンマに美味いことを知った。コーヒーのお代わりをウェートレスの女の子がきちんとテーブルを巡回しながら注いでくれるのが嬉しかった。3日目の朝から、その子が自分のことを覚えてくれて、とびきりの笑顔で「モーニン!」と言ってくれることで、自分はすでにAmericanだと思った。もう、朝食だけで毎朝ぶっ飛んでいたのである。
UC Davisでの学会を終えて、私と奥田先生はミズーリ大学コロンビア校に移動。そこのセミナーで初めて口頭発表をさせていただいた。今思うとたいそうお粗末な英語でのプレゼンだったに違いない。けれど、本人はガチガチに緊張したし、緊張とその後の虚脱感(下の写真参照)が実に心地よいものであることを知った。
このDavisでの学会とミズーリ大でのセミナー発表によって、
ああ、研究者という人種は、
こういう世界にいるんや・・・
こういう風景を見てるんや・・・
と、マジで思った。と同時に、この世界の住人に自分もなりたいとマジで思った。
そして、旅は続いたのである。
続きは、「国際学会のこと-3(あの旅で得たもの)」で!
2013年5月4日
澤井 健