卒業(修了)のこと
「はい、これでOK!」
赤ペン先生よろしく校閲した卒業論文の最終バージョン2部を製本キットで製本し、1部は研究室閲覧用に、もう一部を本人に手渡すと、
ああ、これで彼(彼女)もここを巣立っていくんやな・・・
と、寂しい思いが去来する。
修士論文は事務(業者)に製本を頼むので、製本用の原稿を事務に提出した瞬間に、やはりそう思うのである。
もちろん引き続いて修士や博士課程に進学し、ラボに残る学生さんの場合は、「はい、引き続きガンバな!これからもガンガンいくぞ!」とテンションアゲアゲでいくのであるが、学部や修士を修了し、このラボを巣立って行く学生さんの場合は、かなりしんみりとした気持ちになってしまうのである。
毎年、毎年あいもかわらず・・・
自分自身の学部卒業、修士修了のときは、まさに「卒業(修了)とは、新たな旅立ちのとき。胸躍る瞬間」であった。しかし、博士課程を修めた春、それは明らかに違っていたことを思い出す。
博士3年生の冬、何度も修正いただいた末にようやく完成した最終審査用の学位論文を指導教官の丹羽晧二教授に提出した日のこと。帰宅のため、いつものように路線バスに乗車した。夕闇迫るなか、後部座席に座り窓ガラス越しに岡山の繁華街のネオン看板をボーとみつめていたら、急に、ほんとうに前触れもなしに、泣けてきたのである。
窓ガラスに映った自分自身を見つめながら、
自分はもっとできたんとちゃうやろか・・・
なんでもっとあの実験にこだわらへんかったんやろ・・・
もっとしっかり論文、書けたはずちゃうんか・・・
まさに、強い後悔の念がとめどなく次から次にわいてきて、拭いても拭いても両の眼から涙が溢れ出すのである。
その涙をそっと拭っている間、フラッシュバックのように頭を流れるのは、ついさっき、丹羽先生に製本原稿を手渡したときのシーンなのである。
西日が指す教授室のなかで、丹羽先生は、いつものように煙草をくゆらせながら、私の最終原稿を受け取り、不意にこうおっしゃられたのである・・・
「あんたなあ、北海道に行っても頑張らなアカンねんで。ええか、しっかりしいや。これから、しっかりやらなアカンねんで・・・」
丹羽先生の声は、いつもと変わらぬ淡々とした口調のなかに、これまでにないどこか優しい響きがあった・・・
私は丹羽門下生のなかでも、決して、できの良い学生ではなかった。半年分の実験データを基にしたテーブル、図、すべて却下されたことがあった。何度も何度も教授室に呼ばれては、実験計画、結果、考察をダメだしされた。学会発表要旨に始まり、投稿論文、学位論文、恐ろしいほどの赤ペン修正をくらった。
それでも最後には、ちゃあんと学位をいただけた・・・
もうこの春からは、丹羽先生はいはらへんのやな・・・
一人でやってかなアカンねや・・・
そう悟った瞬間、丹羽先生のありがたさを本当の意味で知ったのである。そして、はじめて自分のいたらなさを理解し、心の底から懺悔した・・・
あの日、たった一人、バスのなかで。
人は何かを失うときにはじめて、その何かの真の意味や価値を知る。そして、その何かを失うことの悲しみにようやく気づくのである。私は、27歳の春に、はじめて「学生として過ごすことの価値」を知り、その時代が終わり「巣立つことの悲しみ」を知った。
そして私は、北海道の畜産試験場の研究員となった。丹羽先生のお言葉通りにしっかりとやれたかどうかはわからない。ただ、新たなテーマに取り組み、シャニムに食らいついた10年間だったと思う。その後、教員として岩手大学大学に赴任し、はや7回目の春を迎えようとしている。
大学の教員になって初めてわかったことがある。
学生にとって巣立ちの春は1度きりであるが、教員にとっては、顔ぶれは変われどその春が毎年やってくるのである。そのことを考えると、教員とは、なんと因果な商売なのだろう、と思う・・・
毎年毎年、巣立っていく後ろ姿を見送る寂しさのなかで、それでもなお、彼ら(彼女ら)が、新天地で、これからも笑顔でしっかりと頑張ってくれることをただただ願う春なのである・・・
あの日の恩師のように・・・
澤井 健
2014年3月6日