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研究室配属のこと

 今年も10月に入り、我が研究室も新しいメンバーを迎えるにいたったわけである。今年の新メンバーは、1名(メンバー紹介コンテンツをチェケラッ!)なので少し寂しい気もしないではないが、ま、我が研究室を選んでくれただけで嬉しいのである。

 

 思い起こせば、二十数年前、学部3年生の春、私も希望に胸ふるわせて研究室に入ったのである。帯広畜産大学畜産学部の家畜生産科学科(当時)という学科の「肉畜増殖学研究室」という研究室であった。家畜の増殖、すなわち繁殖学を専門とする研究室で、教授はバリバリの臨床繁殖学、助教授は、ウシやヒツジの体外受精や胚培養、さらにはヒツジの季節外繁殖などを専門にする気鋭の研究者であった。助手の先生は、育種がご専門であった。

 

 私は、ウシの体外受精に興味があり、是非、その助教授のもとで研究がしたいと早くから増殖学研究室を志望していたのである。当時、バイオテクノロジーという言葉がホットで、畜産分野でその最先端の一つは体外受精などの発生工学とされていた。そのため、増殖学研究室は毎年大変な人気で、私の学年も1学年60人の同級生のうち約20人が増殖学研究室を希望するほどであった。1研究室の受け入れ人数の上限は6〜7名に設定されていたので、実に3倍の競争率であった。

 

 研究室の配属先の決定方法は、完全に当事者である学生に委ねられており、希望者が上限を上回った研究室の配属をどうするかは、希望者が一同に介して話し合で決めるということになっていた。当時、帯広畜産大学では学部3年生の前期、すなわち4月から研究室に配属されていた。研究室配属を控えた2月の寒い日だったと思う。午後の講義が終わって、講義室に増殖学研究室を希望する学生が残って話し合いを始めたのである。早々に5〜6名の学生が他の研究室でも良いと教室を出て行ったものの、残り15名ほどの学生は、第一希望を一歩もゆずる気配はなかった。もちろん私もその中で頑張っていたわけである。

 

 1時間が過ぎ、2時間が過ぎて、ケンケンガクガクの案もどれも決定打にかけ、ついにはもうニッチもサッチもいかなくなってしまったのである。話し合いの早い段階から、成績が良い(と思われた)メンバーからは、「1、2年生時の成績順で決めるべき!」と至極まっとうな案が強く提案されていた。しかし、私を含む成績壊滅組は、頑なにその案を拒んでいた。しかし、このままじゃ一番まっとうな案である成績順になってしまうと焦った我々壊滅組は、ついに禁断の最終提案である「じゃんけん一発勝負」を提案し、成績平凡組の賛成をなんとか取り付けた我々の案は多数決の結果、ギリギリ採択されたのである。

 

そして「やはり」というか、「人生そんなもん」というか、その一大じゃんけん大会を制したのは、我ら成績壊滅組と成績平凡組だったのである。おそらく成績の下から7名が増殖学研究室に入ったといっても過言ではない人選であった・・・

 

 今から思うと、「若さ」とは、時に一片の情も示すことをしない「残酷さ」であったと思う。成績順でいけば当然配属されてしかるべき面々が呆然と立ちすくむ中、彼らを夕闇せまる教室に残し、さっそうと引き上げた我々配属組はそのまま学生寮で祝杯を上げ始めたのである。

 

 その日の深夜だった。学生寮の当直当番の学生のノックで叩き起こされた私は、飲み過ぎた安酒でフラフラになりながら、かつ、こんな時間に電話がかかってくるなんて身内に不幸があったのか?と少し焦りながら、学生寮の当直室に引かれた外線電話の受話器を握った。

 

「もしもし、澤井君?」

 

若い女性の声に、腰を抜かさんばかりに驚いたのである。言っておくが、当時は携帯電話なんてのは当然なく、今や博物館に飾ってあるであろうポケベルもなく、250人の寮生に対して2台しかない黒い普通の電話がまさしく「電話」であった時代である。当時の私にかかってくる電話は、ほぼ100%、大阪のおふくろからであり、

 

「あっ、もしもし、健? お金、郵便局に入れといたし・・・もう、今月の仕送りはこれだけよ!—怒」

 

という用件がほとんどであったのである。

 

明らかにおふくろではない自分と同世代の異性の声の主が何の用件なのか?二日酔いに突入したばかりの頭は激しく混乱したのである。

 

「もしもし、澤井君、聞こえている?

実は、お願いがあるの・・・」

 

そう言ったとたん、電話の主は明らかに受話器の向こう側で泣き出したのである。もう、パニック状態である。頭の中はあらぬ妄想と、これは新手の詐欺ちゃうか?!との猜疑心で完全フリーズ、沈黙の時間が長く続いた後、ようやく

 

「お願いって?」

 

と、一声ふりしぼったのである。

 

「うん、今日の研究室配属の話し合いでね・・・」

 

その時、ようやくその声が、学科で一番成績の良いとの噂の同級生であることに気付いたのである。その瞬間、彼女が本題を切り出す前に、私にはすでに用件がわかってしまったのである。

 

「こんなこと今さらお願いできないとは思うのだけど、研究室配属、私と変わってくれないかな?お願いできないかな?もうあとは澤井君しか残っていないの・・・」

 

おそらく私の前に他のメンバーに片っ端から同様の電話をかけて、そして片っ端から断られたのであろうことがすぐに理解できた。そしてこの僕が最後の一人だということも・・・

 

 十勝地方の2月、恐ろしいほど冷えこんだ真っ暗な廊下に当直室のガラス越しにボンヤリと明かりが灯っていた。そのなかで一人、受話器を握りしめ、長い沈黙の時間が流れたのである。ようやく、絞り出すような声で一言、

 

「ごめん、無理や・・・」

 

そっと受話器を置いたとたん、胃の奥底から酸っぱいものがこみ上げてきて、その場で少し嘔吐してしまったのである。同時に、なぜか怒りがこみ上げてきて、しばらくその場を動けなかったことを覚えている。あのときの怒りは、彼女に対してだったのか、自分に対してだったのか、もう忘れてしまったのであるが・・・

 

 彼女は、第二希望の研究室に配属されて、そこでバリバリと卒論研究を行い、研究室で学んだ専門分野を生かせる公務員系の職についた。卒業から7、8年後に、一度、会議か何かの折に彼女と会う機会があったが、あのときの話はまったく出なかった。他愛もない同窓話に花が咲き、今度は是非一緒に飲みたいねと言い合って別れたのである。

 

 ひょっとしたら、彼女はすでにあのときのことをすっかり忘れてしまっていたのかもしれない。いや、もう長い年月の末に、そもそもあの夜の出来事は、酔っぱらった自分がみた夢だったのだろうか?と思うことさえある。しかし、あの夜の出来事は、こうして大学の教員になってから、研究室配属のころになると必ず、年に一度、はっきりと思い出すのである。

 

もし、あの瞬間、

 

「ええよ・・・代わったるよ」

 

と答えていたら、今頃、自分は、どこで何をしているのだろうか?

 

 あの日の夜の出来事を思い出すたびに、必ずこの疑問が頭をよぎるのである。もし研究者になっていたとしても、間違いなく今のものとは別の分野を専門としているであろう。そもそも専門分野が異なれば、岡山大学の大学院には進学していなかった。もし岡山大学に進学していなければ・・・

 

そして、ひょっとしたら自分が気付いていないだけで、実はもう一人の「自分」が、今、別次元で全く別の「人生」を歩んでいる、すなわち「パラレルワールド」がどこかに存在するのではないだろうか?と、つい、想像してしまうのである。

 

 また同時に、パラレルワールドのうち、どの「ワールド」を人生として歩んでいても、「現ワールド」と同じように、それぞれの楽しみや苦しみや幸せをきちんと謳歌し、背景は違うけれども同じような人生を生きるものなのかもしれない、とも思う。

 

 けれど、いずれにせよ、二十数年前、配属先としてあの研究室を選んだということよりも、あの夜、最後に、あの一言を絞り出した瞬間が、我が人生最大級のターニングポイントであったと間違いなく思うのである。

 

 澤井 健

20131028