国際学会のこと-3(あの旅で得たもの)
ミズーリからカリフォルニアに戻った奥田先生と私は、後世、研究室内で伝説として語り継がれることになる「旅」に出発する。カリフォルニア−アリゾナ−ユタ−コロラド−ネバダを10日間かけて巡るロングロングドライブの旅行である。一日の平均走行距離が800Kmというなんとも凄まじいドライブであった。
ドライブ初日、ヨセミテ国立公園からデスバレーに向かう道で給油したのだが(その給油は私が担当した)、セルフの給油というものに当時はなれていなくて、給油後、給油キャップを車の屋根に置いたまま走り出してしまった。途中で気づいてUターン。道端を探しまくった。今にも茂みからアメリカクロクマが飛び出して来そうで、ホンマにビビった。今は国内でもセルフ給油が主流となったが、私はセルフで給油するたびに、毎回、このエピソードを思い出し、決して給油キャップを閉め忘れることはない。まさにトラウマである。
アメリカ西部の荒野を延々と走ったが、風景はまったく変わらなかった。デスバレー州立公園内の砂漠で、「まったく音の無い世界」というものを初めて体感した。私のナビゲーションのまずさから、砂漠から抜け出せずに延々と荒野を走った。ようやく対向車線を走る車が見えたので、その車を止めて道を聞こうとしたが、ボロボロのピックアップトラックにネイティブアメリカンのおっちゃんが乗っていて、怖くて車を止めれなかった・・・・・
ようやく砂漠を抜け出し、アリゾナに入りかけたころ、もう日が暮れかけていた。その日、ルート40のモーテルに飛び込んで、部屋が空いているかを聞くのは私の番であった。
モーテル前に車を止めて、私だけがフロントに行き、空き部屋の有無をたずねる。実に単純な英会話である(と思われた)。しかし、ロングドライブの疲れと、みるからに気怠そうなフロント係の白人のオバちゃんに少しひるんだ私は、事前に頭の中で組み立てたフレーズを怖ず怖ずと口にした。
「Do you have a dream?」
怪訝そうに眉をしかめたあのオバちゃんの顔を今でもハッキリと思い出す。
「No!」
そして、なぜだかそのオバちゃんはフロント奥に助けを求めるように声をかけたのである。
私は混乱した。だって表には「Vacancy」の札が立てかけてあったやないか!
これまた怪訝そうな顔をして現れた白人の若いルーム係と思われる男性従業員に、もう一度「Do you have a・・・・」といいかけて、ああそうか!「dream」やなくて「room」や!と気づいた。そりゃそうだ、いきなり現れたいっけん大人だか子供だかわからんようなアジア系の外人に真顔で「あなたには夢があるか?」と聞かれたら誰だって怖い・・・
まさに、毎日このような(すったもんだの末に)の連続である。
アリゾナ州のフラッグスタッフという田舎街に入った直後、街の中心部に翻る超巨大星条旗に感動した。グランドキャニオン近くのナバホ族の遺跡に感動した。ルート60沿いのドラッグストアでタバコを買おうとしたら、「子供にはタバコもアルコールも売らん!親父と一緒にでなおして来い!」と怒られた。ラスベガスは持ち金がなくなりそうだったので通過した。ユタ州に入ったとたん道沿いのネオン看板が一切なくなるのをみてモルモン教徒の慎ましさを知った。
この約10日間にわたるロングドライブは、単に観光旅行という意味ではなく、私の今後の進路を考える上でとてつもなく大きなターニングポイントとなった。
毎日毎日、延々と走らせる車中で、その日、泊まるモーテルの部屋で、奥田先生から、研究とは何か、研究者に必要な資質とは何か、将来、研究者としてやってくために自分に足りないものは何か、研究者になるためにはどうしたら良いのか、などひたすら延々と説教をいただいた。
私は奥田先生に、博士課程に入ってから自分の心の隅に日々澱のように溜まり続けていた将来の進路に対する不安をさらけ出した。そして、博士課程の学生としてそれまで送って日々を恥じた。自分の覚悟のなさや、見通しの甘さを思い知った。
もう、ハマショウサングラスをかけてアホなことしとる場合やない!ということを痛感した・・・
日本を出発する日、成田空港の免税店で買ったウイスキーのボトルを毎晩、モーテルの部屋で奥田先生と飲んだ。つまみはその日、その日に、スーパーで買ったサラミとかチーズ、パンである。そのウイスキーボトルの底が見え始めた頃、再びサンフランシスコの街が見えた。
明日帰国するという日にサンフランシスコのモーテル前で撮った写真である。よ〜く見てみてほしい。その顔に何か見えるものはないだろうか?
今の私には、
よし! これから、どう転ぶかわからんけど、やるだけやったる!
この世界、ホンマおもろい!
と決意した18年前の自分がハッキリと見えるのである。
エッ、わからない?!
あの旅から、はや18年の月日が経とうとしている。研究者になった今でも、あの国際学会デビュー戦を昨日のことのように思い出すのである。今でも、ことあるごとに「あの旅」によって得たものが自分のその後の人生に与えた影響の大きさを実感するのである。そして、「あの旅」につれて行ってくださった恩師・奥田先生に対する感謝の念といつかそのご恩をお返しせねばとの思いが日々強くなるのである。
けれど私は、この「我が師の恩」を未だに返せずにいる。なぜなら、実に恐ろしいことに、「我が師の恩」は今でも日々累積されているのである。4年前のハワイ・コナでのSSRの時も、今年7月に行くモントリオールでのSSRの時も、宿泊は奥田先生とルームシェアなのである・・・そしてその宿の部屋では毎晩、サラミとウイスキーを前にして、
「ええか、澤井!大学の教員というのはやなあ・・・」
「澤井!お前は、まだまだ甘い!」
などと、実にありがたい説教をいただくのである。
それ故に、まがりなりにも18年前の恩師と同じ立場にたった今、もし彼らにそれが必要な事であるならば、自分の教え子たちにも私が経験した「あの旅」を経験させてあげることこそが、今でも日々積み重なる「我が師の恩」を返す唯一の手段なのである・・・
2013年5月4日
澤井 健